「捨てるのが素晴らしい」っていう文化が嫌いだ、って話

 

 

 

お父さんのセンスがなくて困っている。



私のお父さんは、まあいわゆるフツーの会社員なので、まあフツーに出張にも行く。

 

海外は滅多に行かないけど、国内でちょくちょく行っていて、ありがたいことに必ずお土産を買ってきてくれる。

 

が、しかし。もう絶妙なまでにセンスがないのだ。






代表的なものを紹介させてほしい。

 

 

 1つ目はコレ。高校生のとき、アメリカ出張で買ってきてくれたもの。

f:id:maaaaax:20160714234745j:plain

まあえげつないほどゴツいピンク。

サッカー部のマネージャーをやっていたので、部活で着る用にこのチョイスだったんだろうけど、私の部活のチームジャージは青だった。

この2つと合わせると、大阪のおばちゃん的色使いのコーデを楽しむことになる。

実際何度か楽しんだ。

 

 

次にコレ。

f:id:maaaaax:20160714234512j:plain

 

どっちも現品が実家にあるから拾った画像だけど、しかも「fujides」はちゃんとした画像見つけられなかったけど、大学生のときに買ってきてもらったTシャツ。

もれなくパジャマ行きだし、自分の娘が20代女性だってわかっているのか甚だ不安。

この頃、毎晩ストロングゼロ飲んでたから、もしかしてお父さんの目には私が50過ぎのおっちゃんに見えているのかもしれない…。

ただ、夜中に落ち込んだときとか、鏡にこれ着た自分がうつると、本当ぜんぶバカバカしくなって笑えるので、その点では評価が高い。

 

 

最後にコレ。

f:id:maaaaax:20160714234258j:plain
一番最近の、高知土産。

カツオ人間

ちゃんと男女両方のカツオ人間を用意してくれている周到さ。

これを受けとった瞬間のみゆきは、

「あ、お土産?!おーっ!おおお?おあー、あーーはいはい、おー。ん……。あ、ありがとう!!!」みたいな感じだったと思う。



 

他にもいくつかあるんだけど…、まあ代表的なのはこいつらだ。

 



でもまあ、こうして写真に撮っていることからもわかるように。

私は結局これらの品物たちを、後生大事にここまで引き連れて生きているのだ。









 

 

 

最近、ミニマリストとか、断捨離とか流行ってて、正直めっちゃ憧れてる。

私はどちらかというとモノを溜め込む性質だから、余計にミニマリストのすっきりした部屋に憧れたりもする。

 

最近では、フランス人は服を10着しか持たないって噂で、だから私もあんまり買いすぎないようにしたいなって思うし、本とか雑誌とかも、もう読まないものはなるべく売るようにしている。






 

でもときどき、ゼミの教授の研究室を思い出して、ちょっと切なくなるのだ。

 

あんまり真面目な学生じゃなかったせいか、研究室には数回しかお邪魔したことがないけれど、その研究室はまさに文学ゼミといった感じで、ありとあらゆる書籍が壁中に並んでいて、机の上にも本やプリントが積み上がっている、そんな部屋だった。

決して汚くはないけれど、まさに「雑然」という感じ。整理整頓はされていない、でもすべてのものがあるべき場所に納まっている。

そんな研究室の奥でパソコンと向き合う先生の姿を思い出して、なんというのだろう、うん、切なくなるのだ。





あの研究室は私にとって、ちょっとドキドキする秘密基地みたいなものだった。

 

少し雑多で、乾燥した空気で、先生の「好き」が積み重なった場所。

あの研究室に行くと、私はすっごくわくわくして、でもほんの少し居心地が悪かった。

あの部屋は、「先生の部屋」で、先生はちゃんとその一部で、私は部外者なんだなってはっきりわかる部屋だった。

だから好きだった。







あの空気は絶対に、ミニマリストの部屋や、断捨離を終えた家では味わえないと思う。



捨てるって言葉の語源は、「手から離す」らしい。

要するに「てばなす」ってことだ。

 

「てばなす」ことがもてはやされないあの空間では、色んなものが文字通り積み重なっていて、さらにその「もの」に付随する時間とか記憶も積み重なっていた。

それは絶対に「てばなす」ことを基礎にできあがった部屋では作れない空間だったと思う。







 

なにかを手にいれるときって、だいたいなにか「好き」がそこにくっついている。



このデザインが好き。

この作家が好き。

この履き心地が好き。

これを選んでくれた人が好き。

プレゼントしてくれた人が好き。



そんな「好き」を、断捨離とかミニマリストの名目で手放していくのが、どうしようもなく寂しいことだなって、ときどき思ってしまうのだ。



もちろん「好き」は変わっていくし、着れない服は取っといてもしょうがないし、読まない本も汚れた靴も手放すべきだ。

ぜんぶ取っといたら日本中がゴミ屋敷で、行政が大騒ぎで、消費税が80%とかになりそうだし。




でも、「捨てるのが素晴らしい」っていう文化は絶対に間違っていると思っている。




「好き」を積み重ねて出来た、自分だけの素敵な秘密基地を作ることだって、同じくらい素晴らしいことだし、モノがたくさんある部屋を汚いと呼ぶのも違うと思う。

 

とかいうと、ゴミ屋敷もオッケー?!ってなりそうだけど、まあ人に迷惑かけない範囲内でねって話。



大事なものは、人に迷惑かけない範囲内で、どこまででもぞろぞろ引き連れていけばいいし、溜め込めばいい。

 

それで、増えすぎて持ちきれなくなって捨てるときは、ちゃんと寂しい思いをして、取っといたってしょうがないよねって自分に言い聞かせながら、まあ「今までありがとう」とか話しかけちゃうのはメルヘンチックで私の性分に合わないんだけど、でも寂しいなあ、成長したなあって思って捨てたらいい。











小さい頃、お祭りの屋台によくある宝石の掴み取りが好きだった。

イルカとか貝殻の、カラフルなおもちゃ。

なんで急にこんな話をしたかって言うと、そいつらはなぜだかずっと引き出しの奥にいて、このあいだ久しぶりに見つけたのだ。



15年前キラキラの宝石だったものも、今となってはプラスチックのガラクタで、でも、見つけたとき、あれがほしかったときの気持ちを思い出してなんとなく笑ってしまった。

 

そんなガラクタをつかみ取りさせるために、いちいち300円払ってくれた両親の気持ちまで想像すると、やっぱりちょっと笑っちゃったし、でもそれと同じくらい寂しくもなった。

 

中学生のときに捨ててたら、捨てるときに「ほんとこれ金の無駄使いだったな、これ買わなかったらアイス何個買えんだよ」としか思わなかった。

 

でも、このあいだそれを捨てるときには「まあ、もしいつか子供ができることがあればこういうの買ってあげたいな」くらいには思ったし、ほんのちょっと笑ったり、切なくなったりできた。

使わなくなった3年後にはなかった価値が、15年後に生まれることもあるのだ。

その後遠慮なく捨てたけど。






だからきっとお父さんのお土産も、おなじことなのかもなーって思う。

今はまだ「やっぱ捨てるのはな〜、せっかく買ってくれたんだもん」ってだけで、でもこれから先のずっと未来に、きっとパパと同じ年になったくらいに、もしかしたら今の私には思いもかけないなにかを教えてくれるかもしれない。




捨てられないものがあるって、悪くないよ。

部屋がちょっとごちゃつくし、友達を家に呼ぶときは、10分外で待機してもらわなきゃいけなくなるけど、それも含めていいことだよ絶対に。

少なくとも私はそう思う。

 

だから、これからの人生をかけて、ちょっと雑多だし引っ越しのときに苦しめられるけど、ちゃんと私がその一部になれる、そんな秘密基地を私も作っていきたいなってそう思うのでした。












 

 

 

ところで、なんでこんな記事書いたと思います?

 

それはね、こないだ買った本棚のカード請求が来たからです。

さんまんえん。

ええ、はっきり言って絶望ですよこんなん。

3万って!本棚に3万って!いや後悔してないけどね?!してないけども!!!

 

身の丈に合わないデカすぎる本棚と、給料に合わないデカすぎる出費。

薄給に関わらず、ブックオフでの大人買いがやめられない自分。

 

それらすべてを正当化させるための記事でした。

本当にありがとうございました。

 

おしまい。




 

 

後悔していることリストが嫌いだ、っていう話

 

 

 

たまにTwitterとかで見かける「20代のうちにやっておけばよかったこと」とか「死ぬ間際に後悔すること」のリスト。




 

あれが嫌いだ。




 

「もっとチャレンジすればよかった」とか

「周囲の視線を気にしすぎた」とか

「お酒・たばこを控えればよかった」とか

「つまらない仕事を続けなければよかった」とか

「貯金しておけばよかった」とか、えとせとら。




 

お前らの未練を、あたかも高尚な説話のように話すんじゃねーよって思う。



そりゃ親切心のつもりなんだろうし、僕たちはこういうことで後悔してますよー、こうしたらうまく行きますよーってアドバイスなんだろうから、本当ならありがたく拝聴すべきなんだろうけど、なんかもう生理的に無理なんだよね。

「私の人生、RPGの2周目かよ」ってなっちゃう。




 

 

大人になったら見えることってたくさんあるんだと思うし、私みたいな若輩者にはわからない、とか言われたらもうなにも言い返せないんだけど。

「失敗くらいさせてくれよ、私の人生だぞ」って言い返したい。




 

極端な話、デート中の高校生カップルに、

「いいか、お前らは将来かなり高い確率で別れる。間違っても結婚しない。だから今すぐ別れて勉強して良い大学いけ。そしたら将来は優良企業に入りやすくなるし、そしたら給料はもっとあがるし、そしたらもっと良い暮らしができるし、とにかく今すぐ別れるんだ」

ってアドバイスしてるようなもんでしょ、最高にナンセンスだと思いませんか。



 

 

正しいか正しくないかで言ったら、正しいんじゃないかと思う。高校のときから付き合っている人と結婚するってそんなによく聞く話じゃないし、まあそんな僅かな可能性にかけるなら勉強した方が、「よりよい」選択肢だと思うよ、いやほんとそう思うけど。

でも、そのためにじゃあ今は勉強しとけばいいってそんなわけないだろバカ。そういうの経験しない最短ルートを「成功」だの「幸せ」だのって呼ぶなよ。

青春時代思い出したら、なんかバカみたいに楽しかった思い出と同時に、頭抱えて悶えたくなるほど恥ずかしくて後悔しちゃう思い出だって普通はあると思うし、そうじゃなかったらもう人生の意味がないだろう。




 

確かに、「やっとけばよかったリスト」も、「後悔してますリスト」も、誰だってこころのどっかには抱えてるものだと思う。

あんときもっと頑張ってれば、とか、諦めるのが早すぎた、とか、そういう後悔、本当に自分の心に誓って1度も1ミリも感じたことがないって言うんだったら、それはただのバカか相当なナルシストのどっちかだ。

 

 

でも、そのリストは自分の人生の記録のひとつとして大事にしまっといてほしい。

勝手に人から後悔を奪おうとするなよ、そいつのもんだろ





いま、社会人1年目でつまんないことも嫌なこともあるし、「私はもっとでっけえことがしてえんだ!」とか思うし、仕事終わんないで残業してるときは「もっと自分はできる人間だと思っていたよ…」って、ポイフル食べながら落ち込んでるし。

 

もしかしたら、ライターとかWeb業界とか自分には超向いていないかもしれない。5年後になってもなんの成果も残せず、ただただ仕事に心すり減らして20代終えるかもしれない。

そんで結婚も出来ずに30とかになって転職した先で、思いもかけない才能が開花しちゃって、そしたら私は「向いてない辛い仕事で20代を無駄にした」とかいうアドバイスをそのときの20代の人にしたくなる、かもしれない。




 

でも、そんなこと今言われても、超萎えるし、そんな人生願い下げなんだよ本当に。




 

「仕事終わんないやばい」とか言って、上司やら外注先に謝って、私ならもっとできるしって思ったり、向いてないからやめたいわって落ち込んだりして、そんで意味もなく平日に飲んだくれちゃうし、次の日満員電車揺られて吐き気と激闘を繰り広げながら会社行って、まじでもう辞めちゃおっかなって思ったりして、そんでもなんとか目の前の仕事頑張ってやってるんだよ、そういう私の人生を勝手にRPGの2周目にすんな。

勝手に攻略本買ってきて、勝手にプレゼントすんなよ。って思ってしまう。

 

 

 

アドバイスはありがたいけど、別に求めてない人のとこににまでずかずか入ってきて高説たれて、されたほうも「これ素晴らしい!後悔しない人生バンザイ!」みたいなの気味が悪いね。

失敗しないのって、もうそれ自体が失敗じゃないですか。

 

 

ということで、心の狭い私は「ほっといてくれよ」って憤っている、という話でした。

 

 

 

アドバイスは求められたらする、くらいで良くない?

自分からしてくれなくて大丈夫だよ、本当に間に合ってるんだ。23歳なんて社会から見たら青二才かもしれないけど、その青二才の頭にも一応脳みそは詰まっているし、いろいろ考えて生きてんだよほんと、これでもさ。





 

 

———とかいって、私が大人になったら、すごいお節介ババアみたいに色んな人にアドバイスという名目で口出ししてそうだから怖い。気を付けようと思います。



おしまい。